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目次

主として次のような項目で書いて行く予定です。
 

サラエボオリンピックのスポンサーシップ
パジェロ生みの親の一人DKさんの話
パリダカールラリー参戦へ
ブレゲンツ音楽祭のスポンサーシップ
サウジアラビアでのローンチング
山海塾へのスポンサーシップ
中国開国の頃の広告活動
黒船クライスラーの教え
海外販社への新車披露コンベンション

海外でのモーターショウ
その他海外出張、特に欧州、アフリカ、中近東、アジア。



目次


「ぼくの海外広告アドベンチャー時代」を始めるにあたって 
 1968年 M重工入社試験、銀行業はイヤダ、製造業にイキタイ 
1969年 新型ギャランがぼくを救ってくれた 
1970年 上京 東京本社へ 

1970年 最初の仕事 

1977年 トラックの仕事から広告宣伝へ 

1976年 この年にCISAと言う黒船を見た 

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1976年 この年にぼくたちはCISAという黒船を見た

Twitterジャズ喫茶行脚レトロゲームを振り返る日記毎日ジャズ、ゲーム、アートへ マリ・ドゴン族の村へ  スペイン旅行 亀の夢の庭

1976年 CISAディストリビュータ・コンベンション 東京  
 

まず、その何百台というスライドプロジェクターがコンピューターのプログラムに沿って一斉にガシャガシャと動くさまに度肝を抜かれた。

こんな事をしなければならないのか・・・?
CISA(シサ:Chrysler International S.A. クライスラー社の子会社、USA カナダなどの大市場に対し、小市場といわれる中近東、アフリカ、欧州などの市場にクライスラー車を売る、ロンドンに本社がある?この頃はパリかも、)は販売する権利を得たM車を彼らの販売ネットワークに紹介するために、東京で大ディストリビューター・コンベンションを催した。
彼らの中近東、アフリカ、欧州、中南米のディストリビューターを全て東京に集め、世界中でポピュラーになりつつある日本車を紹介し、彼らの国で販売してもらうための説明会、そして試乗会なのである。CISAは日本車を売ることができるようになった事に有頂天だったし、そのディストリビューターも売り易く、人気が出るに違いない日本車を売る事ができるというので、喜び勇んでいるように見えた。


昔のクライスラーのマークですね、今とは異なります。
ペンタスターと言っていました。

彼らは大型ホテルの大広間をぶち抜きで借り出し、大型スクリーンを何十面にも区分けし、何百台のスライドプロジェクターで、大きな写真を出したり、動きをつけたり、その壮大なプロジェクターの壁と、大型スクリーンで動き回る映像に、感動した、と言うより、余りの大きな落差に茫然となったというのが正直なところだった。

世界各国のディストリビューターを集め、大プレゼンテーションする、という僕たちには全く新しいシーンを見せ付けられた。

当然ながら、僕たちの仕事は彼らの支援で、中核はこのCISAの宣伝担当(後で関係するクーパーさん)と、それが率いるロンドンの広告宣伝会社だった。

 

CISAのディストリビューター達にとって初めての日本の車へのエンカウンターにCISAはその大画面で、質問と答えの形で全体を作り上げていた、左側に外人(白人も黒人もいた気がする)のイラスト、右にちょんまげをした侍が陣取っていた。左の西洋人はCISAのディストリビューターで、質問し、右の侍がM自動車で、その質問に答える。

「なるほど、こんな風にわかりやすく、親しみやすくするのだ。」僕たちは一々感心し、それまで僕たちが、紙に車の特徴を書いたりして、こつこつと僕たちのディストリビューターに解説していた方法とは雲泥の差があった。僕たちもこんな風にしなければならないのか?

 

つまらない数枚の紙を配って、その辺の会議室で、ぼそぼそと新車の説明をして、我々が契約して売らしてやっている販売店に理解させる説明会とはまったく違って、CISAのは、最終的にビジネスとして売り上げが立つために、自分たちが生産した車を実際に市場で売ってくれるディストリビューターの皆様に、わかり易く、インパクトを持って、強烈に、M社の車に自信と愛着を持ってもらえるように、プレゼンテーションする事なのでした。

 

ぼくはまだその時はトラックグループにいて、同じ海外企画室として手伝っただけだったが、そのスケールの違い、海外のディストリビューターをどのように扱うか、そして大変なお金を使ってそれを行うこと、などなどに一々驚いていたのだった。

とにかく、何百人というディストリビューターが世界の果てからも集まり、エンターテインメントを楽しみ、何百台のプロジェクター(それらは全て中のスライドと共にセットしてロンドンから持ってきた)がコンピューターのプログラムにより生き物のようにカシャカシャと動き、大画面で車が文字が写真が生き物のように動き回ることに度肝を抜かれたのだった。

これが世界のレベルなのだ、と初めて知った。

at 10:33, pajeroio46, -

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1977年 トラックの仕事から広告宣伝へ

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1977年 トラックの仕事から広告宣伝へ

 

名前は同じ海外企画室だったが、会社の規模、動きに従って、だんだんと発展して行き、数個のグループが構成されていた。

乗用車G、トラックG、業務G、企画G、広告宣伝G。

トラックGのぼくは、仕事がおもしろくなかった。単なる仲介なのだ。

海外営業が海外の販売店から引き合いを受け、価格設定のための見積もりを工場側にお願いするのだが、このトラックGが窓口で工場に見積もりをお願いする仕事なのです。そして、見積もりが出てくればそれを営業に渡し、なかなか工場から出て来なかったりすると、早くよこせ、などと要求する、どう考えても楽しい仕事ではない。

勝手にさぼっていた、と言うのが状況だった。ただ、トラックと言うのはそれなりにおもしろく、ベンツだってやっているし、たしかに武骨だけれど遊べるものだった。

2−4トンクラスのキャンター。

つまらない仕事をさぼりながら、その頃から動いていた世界レベルでの提携、技術協力等をチャートにしたりして遊んでいた。

私の上司は、当然ながら、そんな私を苦々しく見ていたに違いない。噂では「TMはいらない。」と叫んでいた時があるそうだ。しかし、上司として当然で、ぼくが外れ社員なのだ。
よく覚えているのだが、突然上司がやってきて「君がいつも書いている世界メーカーの相関図をコピーしてくれ。」と。当社もそのような中に関係を持ち、当然現状が必要になり、ぼくの上司は、あれだ!と思い、あの資料で世界の状況を説明したに違いない。さぼり人間も時折役に立つ。

何しろ、その頃、長髪で会社にくる社員はいなかった。まともな社員と思われないのは当然だったかもしれない。肩まであった長髪だった(会社をなめているとしか言えない。正直全く気にしていなかった)。

また噂では「TMを海外本部から追い出せ。」と主張したえらいさんもいたと聞いた(随分あとからだったけれど)。

会社の仕事はおもしろくはなかったが、外におもしろいことがいっぱいあったので、あまり気にしないで、さっさと仕事を終えて、一人で街に繰り出していた。

 

そんな外れ社員に、来ないか、と誘ってくれる部署があった。お隣の広告宣伝Gである。多分「あいつ、おもしろくなさそうに毎日いるけど、こっちの広告宣伝の分野なら、おもしろく何かややるかもしれない。」くらいの事を言っていたのだろう。

 

1977年の8月、広告宣伝GのSA氏から誘われて、広告宣伝Gに移動した。

1970年6月に上京し、6年間が広告宣伝Gへ移るまでに過ぎた。

その間、クライスラーの小市場契約が発効して、1972年、北米だけでなく世界各国へクライスラーブランドの下に輸出がされ始め、1976年には世界からそのディストリビューターを東京に集め一大イベントが行われたし、私的には1976年6月には結婚したし、その11月には初めての海外出張に出かけたし、すべてが動き始めて、用意は調ったわけだ。

1977年の輸出台数は、484,084台で、1970年の48倍になっていた

 

at 21:16, pajeroio46, -

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